ルーズリーフ

公私におよぶ経験値獲得履歴的ななにか。

心には性別なんてないと思ってた私はXジェンダーだったらしい

そろそろ部外者(当事者ではないという意味合い)でも、LGBTQ+の話題を扱ってもいいでしょうか?

別に以前からダメというわけではなかったと思いますが、
「当事者でもないのに」と一蹴されそうな気がして、あまり記録にせず個人の考えの範囲で留めていました。

L,G,B,T,Q,X ... 大多数であろう部外者的には全部ごっちゃにしがちだし、
過去に一度調べたとしてもインプットし続けない限りすぐ置いていかれるし、
まあきっとこれからもどんどん分類は細かく増えていくのでしょう。

それくらい日々理解が進んでいるし、解釈も多様化しているし、1つの人類の研究分野としていい傾向かなと思います。

はてそんな今日この頃ですが、先ほどダラ見したはてブのトップページで見かけた下記の記事に、
デスヨネーと共感したので、30も随分と過ぎたし1つまとめとして記事を残すことにしました。

one-mam.hatenablog.com

かなり感覚的にはこちらの筆者さんと近いです。

まぁ多少違うのは、Xジェンダー的に振舞ってきたこと。
だって中身はどちらでもないし、別にどちらとされてもいいやーと11〜12歳頃から思っていて、以降随分と好き勝手に振舞っていたのです。

思考に性差なんてないだろwww
あるとしても環境要因かアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)からの回避行動っwwww

くらいの考え方をしてきました。

一応「X」の存在も昔どこかで聞いたことがあったのですが、そういえばちゃんと調べてなかったのでなんぞやと、上の記事中のXジェンダーに関する内容を読みに行ったのですが、なんだこれじゃないかと今更発覚しました。
とはいえ、引き続き部外者面しています。
別に、私は私の好きなように引き続き振舞うよ。くらいなもんです。
どこまでいっても所詮"私"は"私"以外の何者でもないのだから。

まあおかげさまで、幼少期は窮屈さを感じたりもしながら過ごしてきましたが、
その分、身体的性別からみた"女の子"では「前例がない」ことをやらせてもらえたり結構第一号的な存在になりがちだったので、個人的には大変誇らしかったです。
いわゆる思春期が1990年代以降なのです。時代も味方したのでしょう。

最近になって、こちらが意図しない場面で身体的性別である「女性」さを強要されるとすごい反発するところがあることに気づきました。
だいたい相手は主人ですね。
必要に応じて、自発的に「女性」らしく振舞うことは別に、気にしません。
それが有利に働く場面というのはもちろんあるし、必要であると理解すれば「女性」を使うことを求められても構わないのです。
いやはや、我ながら意外とめんどくさい人でした、気づけて良かった。

これは多分、婚姻を機に主人が他人から家族という括りにシフトしたので、私の中でうまく調整がつかなかったんだと思う。
特に子供が生まれて、顕著になったところですね。
完全には同じ感覚や思考を共有する存在なわけではないので、当然のこと。今後もすり合わせを頑張りましょう。

個人的には、ロボットやヒューマノイドよろしく、外見性別はあるけど中身はなんらかのロジックによって応答する生命体、だと思って相手してもらいたい、が理想です。
私は周囲に対してもそう思って接していたのだけど、あまり頻度の高い考え方ではなかったのかもしれません。
だからって他者が私をどの性別に分類しようと、正直あまり興味がなく、影響をされることもなく、どうでもいいのです。

そして多分、こんなXジェンダー的で居続けることができたのは、家庭環境(両親の影響)だろうと分析しています。
私がそう振舞うことを当然のように好きにどうぞと肯定してくれていたし、身体的性別に(高頻度で)求められる振る舞いをせよ、と言われることはほとんどなかった。
ただ、まあ身体的性別によって発生しうる「危険」なことは避けられるように、これはやめなさい、ってのは厳しめに言われていました。
その辺の線引きがとても上手な両親だったのだと思います。

ということは、やっぱり色々要因を取り除けば心の性別なんて実は存在しなくね?が私の持論なのですが、はてさて。
あと議論の齟齬が生まれるとすれば、自分の「心」の定義が「"私"の思考や選択に影響を及ぼす内部ロジック」なので、性自認とはまた違うもののようにも感じます。
どんなものでも、一般化は難しいですね。

子供達にも、「男の子だから」という言葉は極力使いません。
「男の子だから、力は強くなりがちだから十分気をつけるように」とかは不可避なので使いますが、
身体的性別によって発生しがちな点については、科学的にも根拠足り得るでしょう。
(ですが、統計的に発生しがちだからといってそれをさも当然のように全個人に当てはめることは筋がおかしいですね。)
いずれにせよ私個人としては、行為や選択に関わる子供達の「内部ロジックの構築」に対して、身体的性別を使用して何かを強要するようなことは避けるよう心がけています。
これもまた難しいですけどね。完璧ではないにせよ。心掛けだけは忘れずに。

まぁどういう結果であっても人は興味深いものなので、とにかく子供達が迎える未来が楽しみですね。
自分が自分らしく、結果がどうであれ最後は自身を否定することのない選択を継続できる人生であれば?
でも、そのあたりも自由に考えて自由に決めてくれればいいと思うし、一概に言語化はしにくい感覚ですね。

少々脱線しましたが、私が自身の性別に対する解釈およびその周辺については以上です。

本当は、もうちょっと書きたいことがあったけど、追記できたら後ほどします。
ちょっと追記。

性自認が女性でも男性でもない割に結婚してるし子供もいるわけですが、
それは私が「親」という存在になりたかったからで、憧れがあったから。
だから相手として身体的性別が異性である男性と結婚して、幸いにも願い通りに子供にも恵まれたのです。

逆に、「親」になるという願望がなければ、私はパートナーとして女性でも男性でもどちらでも魅力的な人であり、かつ相手からも望んでもらえれば、その人と一緒にいればいいじゃんと考えていました。
なので、しょっちゅう当事者たるお友達の皆様からはバイじゃん〜と言われていましたが、まあより適切なのはXでしたねという所感です。

あと何となく私の中では「女性」と「母性」は全く異なるもののようで、これは親になっての新しい気づきでした。
X的ではあるのですが、「母」ではありたいのです。
でもそれは「女」というものとは異なる概念で、個別に存在しているらしい。
我がことながら、へえ〜って感じ。もしかしたら、なんらかの根っこがあって、そこがこの乖離の原因かもしれないしどうなのでしょう。

いずれにせよ、きちんと自分の中のロジックによって検討し、選択して生きてきたので、特にいまとなっては違和感や不満などはありませんね。
まあそういう人もいるんだな〜程度のメモですが、これをまた10年、20年後に読み返して、くすくす笑いながら最新版の検証結果をまとめて行ければ楽しいかなと思います。

以上です。